エンタメで人の可能性を切り拓くwebマガジン

TAG LIST

本サイトは広告を含みます

インタビュー

映画『Return to My Blue』野口雄大監督インタビュー「健常者と障害者」の境界が消えた先にあったものとは?

障害のある子どもたちとその家族が、無人島への旅に挑む姿を描いたドキュメンタリー映画『Return to My Blue』。本作で監督を務めたのが、連続テレビ小説や大河ドラマなどの作品を手がける野口雄大氏だ。

ツアーの記録として始まった撮影は、やがて野口監督自身が無意識のうちに抱えていた「障害」と「健常」という境界線と向き合う旅へと変わっていった。撮影を通して、子どもたちやその家族と時間をともにする中で、監督にはどのような変化が生まれたのか。

今回は、『Return to My Blue』の制作を通して揺れ動いた野口監督の心境や、作品に込めた思いを聞いた。

©スタジオなあに



Q. 映画『Return to My Blue』が公開されてからの反響について、どんな印象がありますか?

「不思議だな」というのが一番ですね。実はこの映画、映画化しようと思って進めたプロジェクトではなかったんです。最初は、このツアーの主催者である高橋歩さんから「ツアーの映像を撮ってほしい」と声をかけていただいたのが始まりでした。だから、作品がこうして広がっていることがすごく不思議な感覚です。

公開されてから東京・神奈川・大阪・兵庫・福岡と、全国のキノシネマさんで舞台挨拶をまわらせていただいて、たくさんの方とお会いしました。作品に込めた思いが「しっかり届いているな」と実感していますし、それを実感できたことが嬉しかったですね。

センシティブな題材ではありますが「みなさんすごくポジティブに受け取ってくださっているな」というのが強い印象としてあります。



Q. この作品を制作することになったきっかけや、今回のツアーとの出会いについて教えてください。

共通の知人が高橋さんを紹介してくださったんです。というのも、僕は学生時代から高橋さんの著書をほとんど全部読んでいるくらいのファンでして。トークライブにも行ったことがあります。

なので、2年前に初めてお会いできたときはドキドキでした。そして、最初にお会いした時、急に「来月、障害を抱えた子どもと親御さんたちと、無人島に行くからちょっと撮りに来てよ」と。

今、冷静に振り返ると、そんな大変なツアーについて行くと、よく決断できたな思いますが、ただ、当時の僕は「無人島」と聞いて、純粋にワクワクしていたんです。なので、旅そのものも含めて撮影しに行くことになりました。

普段はドラマや映画の監督をしていて、カメラマンではありません。趣味で一眼レフを使ってスチールを撮ることはありましたが、ツアーの記録やドキュメンタリーに適したカメラは持っていませんでした。なのでまずは撮影に必要な機材をそろえるところから始めて、本当にカメラを買うところからのスタートでした。

©スタジオなあに



Q. 撮影が近づくにつれて、野口さんの心境はどのように変化していったのでしょうか? 不安よりもワクワクのほうが大きかったですか?

最初はワクワクしていたと思います。ただ、事前にツアースタッフと参加者が打ち合わせをするZoom会議があって、そのときに「車椅子が船から海に投げ出されたら助け出せない」や、「ドクターヘリを呼んだ場合、無人島まで何分かかるのか」といった、かなり生々しい話が出てきました。

そうした話を聞いて、初めて参加者全員が「そうか、かなりハードなツアーに行くんだな」と実感したのではないかと思います。僕自身もそこで、「障害のある方たちならではのハードルの高さがある」と明確に認識しました。

そして、ツアーが近づくにつれて、自分の中に「健常者と障害者」という境界線が、いつの間にかできていたことにも気づかされました。無意識のうちにフィルターをかけて二分化していた。そうした自分自身の先入観を、ツアーに向けて準備をする中で、強く意識するようになりました。



Q. 普段は、連続テレビ小説や大河ドラマなどで監督業をされていますが、今回のドキュメンタリー映画に関して苦労した点や工夫した点はありますか?

一番大変だったのは、「筋書きがない」ことですね。普段の仕事は、脚本があり、誰かが頭の中で考えた物語をもとに、どう映像として組み立てていくかを考えるというプロセスです。しかし今回は、そもそも何が起こるかわからないツアーに同行し、起きたことを記録として撮影して、そこから一つのストーリーとして組み立てていく。普段とは順番が逆でした。

だからこそ、ツアーに参加すると決めたとき、自分の中で一つだけ意識していたことがありました。それは、できるだけ自分が介入しないことです。カメラが入ることには、ある種の暴力性があり、撮られているという意識によって、その人自身の反応や振る舞いが変わってしまうことがあるのでははないかと思っています。

©スタジオなあに

もちろん、そうした影響を100%防ぐことは不可能だと思います。それでも、あくまで「そのツアーにお邪魔させてもらう」という気持ちで臨み、自分たちが介入することによって何かが変わってしまう可能性を、できるだけ小さくしたいと思っていました。

一方で、そこには歯がゆさもありました。ありがたいことに、ツアー自体はとても安全で、大きなトラブルもなく終えることができました。それは参加者にとって何より素晴らしいことであり、そうあるべきだと思います。

ただ、作品をつくる側としては、何か大きな出来事が起きたほうが、物語として構成しやすいという側面もあります。実際には、そうした出来事が起こらなかったからこそ、ツアーそのものはとても良い時間になった。

一方で、「この素晴らしい時間を、果たして一本の作品としてどう形にしていけばいいのだろう」という難しさはありました。

撮影している段階では、いいツアーを記録できているという実感はありました。だけどツアー映像をつくり終えた後、一つの映画にしたい、と思ってからが大変でした。

というのも、ツアー映像を単純に並べても、映画作品にはならない。そこに、自分なりにツアーを解釈した物語を再構築しなければ成立しない。自分はお客さんにどんなメッセージを届けたいのか。映画を観て、どんな感情を受け取ってもらいたいのか。そのようなことを、ぐるぐると考え続けて、ひとつづつ積み上げて行く必要がありました。

撮影した素材を全て見返して整理し、脚本を書くように構成を考え、足りない部分は追撮する。そのようなプロセスを繰り返し、映画を生み出しました。



Q. 撮影中はカメラを回し続けていたのでしょうか。それとも、撮影以外に出演者の方とコミュニケーションを取る場面もあったのでしょうか?

基本的には、カメラを回しっぱなしにしていました。ただ、撮影を続ける中で気づいたのは、カメラを向け続けていると、どうしても出てこない言葉があるということです。「カメラを止めているときのほうが、いい言葉が出てくる」と感じることもあり、そこはかなり難しいところでした。カメラを回す、止めるということを含めて、試行錯誤しながら撮影していました。

最後に加藤さくらさんが車の中で「命を繋ぐことだけが生きているということじゃない」という話をしてくれる場面があります。実は、あの車内のシーンは、隠し撮りでした。

僕が前の席に座っていたところ、移動中にさくらさんが、自然と話し始めました。なので慌てて、カメラのRECボタンを押しました。最低、音声だけ撮れていればいいか、と思いましたが、長く会話していたので、バレないように徐々にカメラをさくらさんの方に向けて行きました(笑)。

結果的には隠し撮りという形になりましたが、カメラを意識させないことは、こうしたドキュメンタリーにおいて、とても重要なのだと思いました。当然、相手との関係性も大事なので、互いに信頼関係があって初めてできることだな、ということも学びました。

©スタジオなあに



Q. 本作は全編39分に凝縮されていますが、作中以外で伝えきれなかった出来事などはありますか?

1つは、無人島から本島に戻った後に行った乗馬体験です。エンディングにも少し登場しますが、車椅子の子どもたちが馬に乗って歩く場面があります。撮影しているときは、人工呼吸器を外して海に入る壮眞君を見たときと同じように、「なぜここまでやるんだろう。危険ではないのか」と正直、思っていました。

実際、壮眞君がお母さんと2人で馬に乗ったときには、人工呼吸器から「ピーピーピー」と機械音が鳴り、馬がその音に驚いて急に止まる場面もありました。

周りには何人ものサポートがついていたので大事には至りませんでしたが、「落馬したら大変だ」と、こちらまで緊張するような瞬間でした。

それでも、本人たちは前に進んでいく。その姿を見ながら、ずっと「なぜそこまでしてやるんだろう」と考えていました。

ところが、映画を完成させてから振り返ると、見え方が変わったんです。無理やりやらせているのなら話は別ですが、子どもたち自身が「やりたい」と思っている。

そして、それを叶えるために親御さんやスタッフが「どうすれば実現できるか」を考えていく。障害があるから「難しい」「無理だ」で終わらせるのではなく、そこから方法を探して、みんなが本気で向き合う。

そしてひとつひとつ解決して、そのプロセスを一緒に楽しんでいく。その姿勢こそが、このツアーに素晴らしさをもたらしたのだと思います。

©スタジオなあに

もう1つ印象に残っているのが、スタッフの方たちです。車椅子を運んでいる男性たちも、ボランティアだと思っていたのですが、実はツアースタッフで、自分でお金を払って参加している方だったんです。そこには、もはや『助ける側/助けられる側』という単純な関係はなかったように思います。

子どもたちが喜んでくれるから嬉しい。だから車椅子の子どもに「あっちに行きたいの?じゃあ行こう」と、誰かに頼まれる前に自然と動き出す。

水陸両用の車椅子で海辺を走るときも、車椅子を押す方が「押してあげている」ではなく、自分が全力で楽しんでいる。その姿を見ていると、誰かに何かを与えているようで、実は自分も何かを受け取っている。そんな循環が生まれているように感じました。

そこに、人間の可能性を強く感じましたね。映画の中でも、「この人たち、すごくポジティブで幸せそうだな」と感じてもらえると思います。その背景には、こうした関係性や、互いに与え合う循環があるのだと思います。

©スタジオなあに



Q. 映画『Return to My Blue』の制作にあたり、撮影の前後で変わった考え方や価値観の変化はありましたか?

1つは、「障害者/健常者」という区分に、自分自身がフィルターをかけて、勝手に二分化していたことに気づいたことです。ツアーで一緒に時間を過ごすうちに、その境界が少しずつ溶けていきました。

大きなきっかけになったのが、子どもたちとの接し方に迷っていた時、親御さんから「子どもの肌に触れてもらうだけでも嬉しいんですよ」と言われたことです。

その言葉を聞いて、「そうか。僕にも子どもがいるけれど、自分の子どもと同じように接していいんだ」と気づきました。そこから一気に気持ちが楽になって、「どう接したらいいんだろう」と身構える必要はないのだと思えるようになりました。

「元気?」「食べてる?」と声をかけたり、触れ合ったり、ごく普通にコミュニケーションを取る。人として当たり前に接していい。そのシンプルなことに気づけたのが、実はものすごく大きかったです。

©スタジオなあに

当時を振り返ると、自分は「知らない」からこそ、どんな距離感で接すればいいのかわからず、そこに恐れを感じていたのだと思います。

例えば、人工呼吸器をつけている壮眞に触れて、自分の汚い菌がついてしまったら大変なんじゃないか、などと知識がないことが、自分の中に勝手な境界線をつくっていた。

そのことを、頭で理解するのではなく、実際に一緒に過ごす中で実感できたのは、大きな変化でした。

もう1つは、「チャレンジすることへのハードル」がものすごく下がったことです。壮眞君が無人島に行った姿を見て「もう僕は言い訳できないな」と思ったんです。

もちろん、僕にとって長編映画を作ることや、新しい作品をつくることも簡単ではありません。

実際、映画を作る前は「初めてのドキュメンタリーだから、未知数すぎる」「形にならないかもしれない」「これだけ時間をかけて、何も残らなかったらどうしよう」と不安になることもありました。

前作の脚本を書いていたときも、「こんなに時間を費やして、本当に報われるのだろうか」と考えていたこともあります。

©スタジオなあに

しかし、その不安はかなり軽くなりました。もちろん、挑戦した結果、成功するかどうかは別の話です。それは結果でしかありません。ただ、少なくとも「挑むこと」はできるようになったと思います。

そして、挑戦するときは、結果だけを追うのではなく、その過程をできるだけ楽しむことが大切だと学びました。「挑戦へのハードルが下がったこと」「その道のりを楽しむことの大切さ」。この2つは、この作品を通して得た大きなものだと思います。



「健常者と障害者」という無意識の境界が消えた瞬間、そこにあったのは、「人間同士が生きる」ことの真の輝きだった。どんな状況に立たされようと前へと進む子どもたちは、いま一度我々に問いかけてくる——「これが、生きるということなんだ」と。

劇場公開情報

[東京] シネマ・チュプキ・タバタ(東京都北区東田端2-8-4/JR田端駅北口より徒歩7分)
・[島根] Shimane Cinema ONOZAWA(島根県益田市あけぼの東町2-1 小野沢ビル3F/益田駅から徒歩約7分)
・[長野]長野千石劇場(長野県長野市南石堂町1367/長野駅善光寺口より徒歩約3分)
・[沖縄]桜坂劇場(沖縄県那覇市牧志3-6-10/国際通り てんぶす那覇から徒歩2分、ゆいレール牧志駅より徒歩6分)

詳しい情報は公式サイトよりご確認ください。

©スタジオなあに

コメント

この記事へのコメントはありません。

RELATED

PAGE TOP