エンタメで人の可能性を切り拓くwebマガジン

TAG LIST

本サイトは広告を含みます

俳優コラム

第5回外山史織コラム『他人に振り回されることがある自分。自分の軸を持つこととは?』

「時間は有限だ」

祖母が亡くなってから、この言葉が胸に留まっている。

後悔のない選択を、私はどれだけ重ねてこられただろうか?
限られた時間の中で、自分の心に素直に従えた瞬間は、いったいいくつあっただろう。

世界には何千何億という人間がいるのに、なぜ、目の前の人の顔色ばかり気にしてしまうのか——そんな問いが、しばらく頭を離れなかった。

そこで今回は、なぜ自分がそこまで他人の顔色を伺ってしまうのか?その理由を辿りながら、「自分の軸を持って生きる」とはどういうことかを考えてみたい。

他人の顔色に縛られることがある自分

私は学校を出て選択肢が増えてから、生きることを楽しいと感じられるようになった。あの頃は、教室という狭い世界の中がすべてで、そこで起きたことが一生続くとすら思い込んでいた。

そんな無限の可能性を信じていた私だが、少し前からなんとなく「人の顔色を窺う癖」というものを感じるようになった。

自分の意見を堂々と言える人を見ると素直に羨ましいと思う。きっとそういう人の目には、私は鎖でぐるぐる巻きになっているように映っているのだろう。

「これはダメ」「あれもダメ」

そうやって、私は自分が勝手に作った「ダメ」に縛られていることが案外多い。

頭ではわかっていても大胆な選択に踏み出せないのは、自分の中の常識が相手の常識だとは限らないと、どこかで知っているからだ。

本当は行きたい場所があっても、相手が疲れていそうだからと別の提案をしてしまったり、物事がうまくいかないときは、たいてい他人の顔色を窺っているときで、「本当はこうしたい」という気持ちを、つい曲げてしまう。

そのときの私は、選んでいるようで、実は何も選んでいない。

「自分で選んだわけじゃない。」——そうやって、傷つくことを避けているだけなのかもしれない。

弱さは、見方を変えれば強みになる

外山史織(本人提供)

「そもそも、自分の良さって何なのだろう?」

それが最初に浮かんだ本音だった。私は昔から、夏休みの宿題を最終日直前に一気に終わらせるタイプで、毎日コツコツ積み上げられない自分を不真面目だと思い込んでいた。

けれど、他の人から見れば「短期集中でやり切れるほうがすごい」という声もある。このように考えれば、物事の見方とは、本当に表と裏で一枚の紙のようにできていると思う。

「苦手にとらわれるより、自分の強みに合わせてやり方をカスタマイズすればいい」

「それはあなたがダメなんじゃなくて、生まれ持った特性。そこを認めたうえで、どうするか考えれば、もっと強くいられる」——そう言われた瞬間、ふっと肩の力が抜けた。

人はなりたい他人の姿を追いかけて、自分の特性を見過ごしがちだ。でも、より良く機能する方法を見つけることこそ、何よりの財産になる。

なぜブレるのか——自分の軸を持つということ

外山史織(本人提供)

実は先日、新国立劇場で行われていた舞台『りんごは落ちた』を観劇しにいった。その舞台で、今もなお、忘れられない台詞がある。

「弱い人がヒーローを探しているのではない。ヒーローのほうが、弱い人を探しているのだ」

誰もが何かに縛られていて、だからこそ、ほぐれる場所を探している。ある人にとっての正義が、別の人にとっては苦しみになる。正しいはずの行動が、誰かにとって不正解になることもある。

絶対的な「正解」など、どこにもないのだ。

それなのに私は、「きっとこれが求められている答えだろう」という回答ばかりを選び、本当にやりたいことを見失ってはいないかと気づかされた。

その行動は、いったい誰の意思だったのか。自分の人生は自分しか生きられないのに、誰かの言う通りに従うことは、自分の人生に対する責任放棄と似ているような気もする。

生き方は人それぞれだ。

それでも、ブレない人を前にすると、なぜか安心する。存在感があり、「この人になら任せても大丈夫だ」と思わせてくれる。

それはきっと、その人が歩んできた道のりや、積み重ねてきた成功体験、あるいは重ねてきた失敗の中で、自分なりに築き上げてきた軸があるからだ。

人の顔色を窺うこと自体は、大切な感受性かもしれない。けれど、そのたびに自分のスタイルまで変えていたら、芯のない人間に見えてしまう。

限りある時間の中で後悔しない選択をするために、必要なのは、他人の顔色ではなく、自分の中にぶれない軸を持つことなのではないだろうか。

コメント

この記事へのコメントはありません。

RELATED

PAGE TOP